異常気象のせいだろうか…
移ろいゆく季節を、暦に定められた行事通りに変わりゆく街の風景にて感じてしまう事に近頃寂しさを覚える。
明日から11月だというのに暖かいため、秋の装いで街を歩いていると、年賀状プリントのパンフレットが、カメラ屋やスーパーの店頭に設置されているのを目にして、年末の近いことを知らされた。
これは地球温暖化の影響だけではないのだと思う。
私が幼少の頃は、電源を入れれば直ぐに暖かくなる今の様な暖房器具は無く、湿気の多い季節でも快適に過ごせるエアコンも普及しておらず、それらの“不便さ”が“季節”を教えてくれていたように思われる。
そういえば、年賀状を作るにしても、昔は色々と“不便さ”があった。
小学生の頃は、まずデザインについて散々悩んだ末に、彫刻刀片手にゴム判や板判と数日かけて格闘して作成していた。
その後“プリントゴッコ”なる画期的な商品が発売され、年賀状印刷に費やす時間は大きく短縮された。また、デザインを考えるでも多くの可能性をもたらした。
思春期真っ只中の私は、当時の用語で“ダサい”ものを送りたくなく、構想で悩む時間は増えてしまった。
そして、いざ“印刷”という段階になって、プリントゴッコのインクの残量が少ないことに気付き探し回るも、その頃になると文房具店やホームセンターの店頭はどこもインクが品薄となっており、その入手に一苦労したこともある。(特に黒色…)
そうこうしている内に、年賀状が元日に配達される投函期限まで僅かとなり、久方ぶりの友人にさえ「今年もよろしく」「また一緒に遊ぼう」といったレベルのコメントを書くのが精一杯で、自身の近況を伝える余裕など無くなってしまう。
それでも、私はこの「年賀状」という習慣をとても大切にしている。
最近ではメール、ライン等により、年賀状の量が大きく減少していると聞く。
また、住所録管理から宛名書き印刷までしてくれる便利なパソコンソフトの普及により、年に一度、恩師・親族・友人・知人の名前を、自身の手で書く行為ですら略せるものとなってしまった。要するに、「自署」「自作(手作り)」なる部分がどんどん減少してしまっているのだ。
それもあり、私は小さなこだわりとして、年賀状には必ず、自身の字で一言添えることにしている。
元々、字は上手くない上に、年末でバタバタしている中、必ずしも“丁寧”に書けるものではない。
しかしながら、正月を迎え晴れやかな気持ちで、ほろ酔いかげんでいる友人達を想いつつ、年に一度でも“私の事”を思い出して頂きたいとの思いを込めて、近況を少しでも書くようにしている。
年に一度、そのような想いで年賀状を書く事でその人に思いを馳せ、最近疎遠になってしまった人とは、近く逢いたいと思い立つこともあるのだ。
逆に、一言でも手書きのコメントが添えられている年賀状を受け取ると、そこから様々な想いを巡らせることになる。
小学校からの旧友などは、書かれている内容だけでなく、昔から変わらぬその文字に懐かしさを覚える。
また、普段はメールのやり取りで“直筆”を見る機会の無い人など、書かれている文字を見て、イメージと一致していることに妙に納得してみたり、逆に意外なほど綺麗な文字を書く人だと知り、その人を見る目が変わったり…
パソコンやスマホの普及で、お互いの“直筆”を取り交わすことが減ってしまった現在、「字は体を表す」という言葉を私は年賀状を通して体感することが多い。
ライン、メールでの遣り取りが多くなった時代だからこそ、年に一度は互いの“直筆”を遣り取りしたいものである。
きっと“絵文字”“顔文字”“スタンプ”に勝るとも劣らぬ、“想い”を伝えるツールになることだろう。