春雨☆サラダ

50歳 2児の父‼️ 好きなものはハードロック、JAZZ、ゴルフ、カメラ、ラグビー、バーボン、芋焼酎、中村あゆみ、高崎晃、ランディローズ、前田日明、田村潔司… 愛読書は北方謙三… 一番大切なものは、晩酌と子供たちとの時間!

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結婚とは!

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 結婚とは、異なる2つの文化が交わることだと、私は考える。

 

 といっても、それほど大そうなことではない…

 

 例えば飲食で言うと、私は天ぷらを食べる際、天つゆが用意されていないとソースで食べる。

 

 それは、醤油を使用する妻からすると、信じられない行為らしい。

 

 そのソースにしても、私はウスターソース派で、揚げ物などにビッチャリと掛けて食べるのが好きだ。

 

 一方で妻は中濃派。

 

 揚げ物の上に少し掛けるだけだ。

 

 ある日、白菜の漬物に「味の素」を振り掛け、醤油を垂らして食べたところ、信じられないような目で見られた。

 

 私からすると普通の行為であり、実家にいた頃から「我が家」の定番であった。

 

 その他にも、から揚げ、目玉焼きなどにケチャップは欠かせないが、妻から言わせれば、それぞれ塩コショウなどで味が付いているので、そのまま食べるのが普通だそうだ。

 

 基本的に、関東出身の妻は薄味派で、私は濃口の味が好きだ。

 

 ただ私の好みにしても、父が熊本の出身なので、静岡と熊本の文化が融合した結果とも言える。

 

 そして私の子供達はというと…

 

 「味の素」と「醤油」という文化を大変気に入ってくれている。

 

 ソースもウスターソース派で、それに浸すようにして揚げ物を食べる。

 

 一方で、目玉焼きやから揚げなどにケチャップを掛けることはしない。

 

 サラダはオリーブオイルと塩だけのシンプルな味付けで食する。

 

 この様にして、私達の子供の習慣が出来て行くことは、私達の結婚によって、新しい文化が生まれた結果だというのは、言いすぎなのだろうか…

 

 その子供達の習慣の中に、「焼いた餅」「卵かけご飯」には「熊本の濃口醤油を付けて食べる」という、私の父の習慣もしっかり伝わっていることが微笑ましい。

 

 お題「#買って良かった2020」…

 というか、もう我が家に欠かせない

サンタクロースの正体❕

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 ウチの子供たちは、小学校4年生ぐらいまでサンタクロースを信じていたと思う…

 

 そもそも子供たちがサンタの存在を疑い始めたのは、普段目にするテレビ番組や漫画雑誌によるものだった。

 

 クリスマスが近くなると、子供向けの「テレビ番組」や「マンガ雑誌」において、サンタの正体に対する配慮が不足しているものが多くなる…

 

 所々で、「両親がサンタであることを匂わす」シーンが登場するのだ。

 

 一緒にテレビを観ていて取り繕うことも出来ないし、下手な解説は却って不自然、逆効果だ。

 

 子供たちは何も言わないが、その様なものに接しているうちに、サンタの存在への疑いが確証へと変わって行ったのだろう。

 

 サンタの正体を見極めるために、イブの夜に遅くまで、一生懸命に布団で目を開けていた頃が懐かしい…

 

 出来ることなら、夜遅くまで起きていられる程に成長した子供たちに、プレゼントを置く姿を見つかることで、サンタの正体に気付いて貰いたかった…

 

 今この話を書いている最中にも、家族揃って観ているテレビ情報番組では、イマドキのクリスマスプレゼントを特集しており、リポーターが「サンタのお父さん、お母さん!」と呼びかけてしまっている…

お菓子のおまけ

 

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 子供たちが小さかった頃、一緒にスーパーマーケットに行くと、入った途端「あるコーナー」に向けて走り出す。

 

 我が家に限ったことではないだろうが、それはお菓子コーナーへ向けての“疾走”なのである。

 

 長男については、既にお金の価値を知っているので特に心配することはないが、お金の感覚を全く持たずに、まさに思いのまま、本能のまま欲しいモノを手にしてしまう長女については注意が必要である。

 

 一度欲しいと手にしたお菓子は“親の説得”というものには応じず、それ以上に魅力的な代替品を提示しないと手にしたものを手放すことはない。

 

 また、無理やり取り上げた場合には“店内で泣き叫ぶ”という展開になることも覚悟しなければならない。

 

 また、お菓子コーナーにあるものだからといって油断してはならない

 

 昔はお菓子に“おまけ”がついていたのが、今や“おまけ”がメインで、お菓子はラムネ1個と言う、いわゆる“食玩”が多いからである。

 

 それらは平均で300円前後の値段であり、本格的なものになると500円近い値段も覚悟しなくてはならない。

 

 いくら私の妻が新聞広告を見比べて、必要な生鮮食品類が1円でも安く買えるスーパーを探したとしても、食玩の購入によって、それは一瞬にして徒労に終わる…

 

 更にやっかいなのは、それら“食玩”は、大抵シリーズものになっており、一つ買ってしまうと、大体5種類くらい買い揃えないと、最終形態が完成しない仕組みとなっていることだ。

 

 一度そのシリーズを買ったら最後、スーパーに行く度に、子供たちは欠落しているものを買い求め、全てが揃うまでそれは続くのだった。

 

 またそれら食玩の内容も、値段が高いだけあって、もはやお菓子の“おまけ”とは言えないレベルのものである。

 

 男の子のものは、完全にプラモデルに近く、その組立に労を要する…

 

 また、女の子のものも、小さなシールを沢山貼るものが多く、細かい作業を苦手とする私の指先には苦痛でしかない。

 

 1円でも安いものを買い求める、親の気持ちも知らずに購入される“やっかい”な食玩

 

 でもね…

 

 今では大きくなって、食玩なんて買わなくなり、ましてや長男が一緒にスーパーに行くことなんか無くなった最近…

 

 妙にあの時、一緒になって食玩を組み立てていたことが懐かしく、 お金は掛かったけど、良き思い出となっていることに気付かされた今日この頃です…

 

大地の力には適わない…

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 時々見かけますね…

 

 この様な光景…

 

 これを見るたびに、どんなに硬いブロックも、アスファルトも、大地の生命力には敵わないって思うのです。

 

雨男、雨女… 失礼かもね~

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 台風が近付く季節、全国で「雨男」「雨女」さんが、話題に挙がる機会が多くなる。

 

 地方によって呼び方が多少異なるであろうが、その人物が旅行や遊びで外出すると、大抵天気が崩れるといった意味である。

 

 しかしながらこの言葉…

 

 口にする側には全く罪悪感は無く、言われる側も友人や家族など周りの人から長年に亘って言われ続けている内に、自分はそういう人物だと、半ば諦め、反論すらしないでいる場合も多い。

 

 反論したくとも、その事象には科学的根拠があるわけでも無く、何とな~くの感覚で言われているため、たまたま自分が外出した時に雨が降り、それを誰かに指摘されてもただただ苦笑するしかない。

 

 その様な「ちょっとした失礼な言葉」というのは、案外多いものだ

 

 血液型による人格や性格の判断も同様ではなかろうか…

 

 自分の性格がいけないのかもしれないが、わたしは血液型が「B型」だというだけで、何度か変な思いをしている…

 

 昔、下唇を裏返し遊んでいると「いかりや長介みたいになっちゃうよ!」と注意された。

 

 下あごを突き出してアントニオ猪木のマネをしていると「猪木みたいな顔になっちゃうよ!」と言われた。

 

 鼻に指を入れて鼻くそを取っていると「サブちゃんみないになっちゃうよ!」とも言われた。

 

 その当時は、良く分からなかったが、例えにされる人に対して、「大変失礼な言葉かも」? ( ´∀` )

やっぱり、本当のビールでしょ!

今週のお題「自分にご褒美」

 

 毎晩、晩酌しているけど、「尿酸値」「コレステロール」「糖質」等々、健康指導を受けた結果、いつも飲んでいるものはウイスキー

 

 ハイボールは嫌いでは無いため、特に苦痛を感じてはいないものの、本当に好きなのは”ビール”なのです!

 

 (そう言えば、昔はウイスキーソーダ水で割るハイボールって言い方… おっさんぽいのでバーボンソーダって呼んでいたけど、今ではハイボールって呼び方が定番となっているから不思議…)

 

 話はそれましたが、「自分へのご褒美」…

 

 それは、月に1回か2回、「本当のビール」を解禁することです!

 時々、どうしてもビールが飲みたい時は、金銭的理由もあって、第三のビールや、いいちこをホッピーで割ったりしています…

 ちょっと、リッチな時だと「発泡酒に行っちゃいます…

 

 でも、本当に本当に自分を讃えたい時は、「本当のビール」を買って、グラスとともに、冷凍庫でキンキンに冷やして、一気に飲み干し「プハー」ってやります。

 

 これぞ、本当に至福の時!

流行って何だろう? 誰が「創る」んだろう?

 

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 流行って何だろう?

 

 世界の中の誰かが発端となって、考えているものなのだろうか…

 

 「来年の春はパステルカラーが流行る」などと、まだ真冬の時期から報道されるのだが、何故その様なことが分かるのだろうか、不思議に思えてならない。

 

 幾らファッションショーなどで「その手」の作品が多かったからといって、それを人々が受け入れるとは、その時点ではまだ分からないのに…

 

 流行とは、多くの人達の共感を得て初めて成り立つものではなかろうか…

 

 ところが不思議なもので、一度流行してしまうと、今まで「格好良い」と思っていたものが、突然「格好悪く」目に映るようになってしまう

 

 私が高校、大学の頃は、スーツはダブルでガッチリした肩パット入りのもの、パンツは太目のツータックで裾を絞りジーンズはストーンウォッシュが定番であった…

 

 今の定番であるノータックのパンツに細身のスーツなど、ちょっと変わった人だけが着て、一般的にはダサくて恥ずかしいものだった

 

 ネクタイにしても、バブル時代は細いものが流行り、その後は太いもの、そして今また、細いものが流行っている。

 

 別に周りを気にしなくても良いのだが、多くの人達が着用していると、それが「標準」に思えて来て、自分もその仲間に入りたくなるのが流行なのだろう。

 

 仲間外れになりたくないとの心境でもあるのだ。

 

 そして流行は繰り返すとも言うが、そもそも何故「繰り返す」のだろう?

 

 それは「いつ」「誰が」「どこ」で”決めているのだろうか…

 

 高速道路の自然渋滞の先頭を見たいのと同じ位、それを知りたい…

 

 それにしても、昔は真面目な優等生だけが着用し、ダサさの象徴であったノータックのパンツがスタンダードになってしまう時代が来るなんて…

 

 そう思うとバブルの頃に着ていた、ダブルの肩パット入りスーツも、未だ捨てられずにいる…

狭い日本🗾 そんなに急いで「何」を得る?

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 高速道路の追い越し車線を、もの凄いスピードで駆け抜けて行く車がいる…

 

 朝の通勤では市街地にも関わらず、前の車との車間距離を少しでも詰めることに注力し、2車線道路に出たとたん、目まぐるしく車線変更を繰り返す世話しない車がいる…

 

 通勤時の光景は毎日のことでもあり、クルマもドライバーの顔も大概覚えてしまう。

 

 それらの中には、途中の「道の駅」や「自動販売機」で必ず一休みする車もいる。

 

 よって、一度は追い抜くことになるが、しばらくすると後方より、またしても目まぐるしく車線変更を繰り返し追い上げてくる車が、バックミラーに映し出されることとなる。

 

 高速道路でも、途中のサービスエリアでのんびり休憩でもしていたのか、凄いスピードで走り去って行ったクルマが、再度後方より姿を現すことも良くある。

 

 毎日の通勤に関して言うと、そんなに慌てて運転する位なら、あと5分早く家を出る工夫をすれば良いのではないか…

 

 それによって、周りのドライバーだけでなく自分自身も様々なイライラや緊張から解放されるのではないかと考えてしまう。

 

 高速道路も、スピードを出し続ける余り、緊張の連続で疲れてしまうよりは、のんびり運転して、休みの回数を減らすか、休みの時間を短縮した方が、目的地までよっぽど早く着くのではないのかと思う。

 

 そこまでスピードを出して運転しても、どれほどの時間を生み出すことが出来るのだろうか…

 

 そもそも思うのが、交通事故や交通違反のリスクを負ってまでして捻出した時間を、どれほどの人が有効に使うことが出来ているのだろうか…

 

 多分、一服したり、スマホやテレビを観たりと、何気なく過ごして終わってしまっているのだろう…

2、3個とは…❓ いったい幾つですかね~

 

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 昨晩、遅くまで家飲みしていたため、昼近くまでソファーでゴロゴロしていると、妻が昼飯をどうするか聞いてきた。

 

 子供達は各々好きな食べ物を挙げるのだが、いくらリクエストしても、冷蔵庫にある食材の都合から、おのずとメニューは限られて来る。

 

 結果、息子はお餅、娘はおにぎり、私はパンとなり、おかずは鶏のから揚げに決定した。

 

 次に妻は、から揚げの個数を聞いてきた。

 

 子供達は「8個」「4個」と、思い思いの数を述べる。

 

 私は、それほど食欲がなかったため「2、3個」と答えた

 

 それを聞いた娘が、「2、3個って何個?」という、子供らしい疑問を私に投げかけて来た。

 

 すると妻が「3個のことだよ。2、3個って言っても、2個じゃ嫌なんだから」と、私の代わりに返事をした。

 

 確かに2、3個と言っておいて、実際に2個しか出て来なかったら少し悲しい…

 

 よって、その発言には、3個欲しいという思いが込められているのだ。

 

 通常、その様な言い方をして、2個しか出て来ないことはまず無いだろう。

 

 また、「2個と3個のどっち?」と聞き返されることもめったに無いのでは?

 

 3個欲しいとの意思を察してくれるのだ。

 

 2、3個の「2」の部分には、自分の欲求をそのまま伝えるのではなく、少し遠慮がちにモノを話す日本人らしさが見える…

 

 

 この習慣…

 

 一見、自分の意思を中途半端に表明しているように見えるが、私は日本人特有の奥ゆかしいやり取りだと思うのですが…

 

私が思う、頭の良い人とは!

 

 

 一般的に“頭の良い人”とはどんな人物をイメージするのであろうか?

 

 やはり、有名大学の出身であったり、難しい資格を沢山持っている人を思い浮かべてしまうのだろうか…

 

 私の思う“頭の良い人”を一言で表すならば、“バランス感覚に優れた人”である。

 

 自分が従事する仕事の知識や技術を有していることは、そこから得る報酬で生計を立てている限り当然のことである。

 

 ただ、それと同じ位、いや、それ以上に常識力やコミュニケーション力、折衝能力などが必要だと、私は考える。

 

 新型コロナの影響で、就職活動が大変だと聞く…

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 その様な中「資格さえ持っていれば…」と思いがちであり、そのような広告も多く見られる。

 

 週刊誌では、有名企業への就職率の高い大学のランキングを、毎年特集している。

 

 しかしながら、そのように資格を沢山持っていること有名な学校を出ているだけでは、私には“試験が得意な人”としか映らない。

 

 私には、「カラオケが上手い」「サッカーが上手い」「ギターが弾ける」といった、特技の一つと思ってしまう。

 

 個々の能力や特技に違いはあるが、最も大切なのは、いかに周りの人達と上手くやっていけるか、それを自分の人生や仕事に活かしていけるかだと考える。

 

 周りの人達と常識を持って接し、コミュニケーション力と折衝力を発揮して、自分の得意なものを他者に提供する。

 

 代わりに、自分に不足するもの、自分が不得手とするものを周りの人達に補完してもらい、結果として人生や仕事を上手にやっていける人物が“頭が良い人”の様に思う。

 

 いくら難しい資格や専門知識を持っていても、常識が無く、コミュニケーション力や折衝力が欠けていては、それはいつまでも表に出ることのない潜在能力でしかない。

 

 挨拶出来ない人、お礼が言えない人、敬語が使えない人、目を合わせて会話が出来ない人、電話が鳴っても中々出ない人…

 

 いつも溜息ばかりついている人、愚痴や文句ばかり言っている人、会話に全くユーモアがない人…

 

 周りの雰囲気を読めずに自分の意見だけを主張する人、相手の話を聴けない人、上から目線で話をする人、人を学歴で判断する人…

 

 昼休みは一人で過ごし、仕事が終われば早々に帰宅する人、誘っても職場の仲間と食事や飲みに行くこともなく、仕事以外の会話が無い人…

 

 常日頃その様な態度でいる人は、いくら難しい資格を沢山持っていようとも、いくら高学歴であったとしても、それ以前にその者自身が周りに受け入れられることはないだろう。

 

 一方で、「コミュニケーション力」「折衝力」ばかりが目立ち、誰とでも上手く接することが出来る人物はどうであろうか…

 

 それに加えて、自分の得意分野を持ち、従事する仕事の知識や技術は長けていなくては、単なる“お調子者”である。

 

 要するに、その辺りのバランスが良い人を、私は“頭の良い人”だと思う。

 

 またそれは、“世渡り上手”な人物指しているのではない。

 

 そもそも、周りに“世渡り上手”と映ってしまうような振る舞いをすること自体が“頭が良い”とは言えないと思う。

ねこ背との決別!

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 私が40歳になった頃の話です…(10年くらい前)

 

 私は中学生の頃から“ねこ背”であった。

 

 親からも度々注意され、それでも直さないため、ねこ背を矯正するサポーターなるものを付けさせられた時もあった。

 

 そこまでされたのに、私自身に直そうという意欲が全く無かったため、40歳になってもねこ背で姿勢が悪い。

 

 ねこ背が健康にも悪いことも、散々知ってはいたのだが…

 

 そんな私を一大奮起させる出来事が起きた。

 

 それは、長女の幼稚園で行われる父親参観会に向かう時のことだった。

 

 私は長女をママチャリの後ろに乗せて、のんびりと自転車をこいでいた。

 

 私と一緒に自転車に乗ることが珍しいのか、後ろの席では長女がはしゃいで、右へ左へと体を揺らしている。

 

 私は、バランスを取るために、ゆっくりゆっくり慎重に自転車を進めていた。

 

 すると後方より「あらぁ、おじいちゃんと一緒で楽しいわねぇ」との声が聞こえ、女性が自転車で近づいて来た。

 

 そして私達の自転車を追い越しながら、後ろの席の長女に笑いかけると、直ぐにその前にいる私を見て驚き、「あら…失礼…」と、スピードを上げて去っていった

 

 人生で初めて“おじいちゃん”に間違えられた私は、相当のショックを受けた…

 

 しかしながら、その数分後、またまた後方より「おじいちゃんと一緒で楽しいわねぇ」と声を掛けられた

 

 今度は私の方から振り向き、声の主を確認すると、私と目が合ったその方は、「すみません…」との言葉を残して、あっと言う間に私達親子の自転車を追い越して行った。

 

 私は薄毛であり、自転車ものんびりと漕いでいた。

 

 しかしながら、同世代でも同じように薄毛や頭が真っ白な友人も多くいる。

 

 その日に着ていた服装だって、どちらかというと若者が着るような派手ものである。

 

 それなのに1日で2度も“おじいちゃん”と間違われた…

 

 これは偶然ではなく後姿が完全に“おじいちゃん”なのだろう…

 

 自宅に帰ってその一件話すと、妻と長男は腹を抱えて大笑い。

 

 二人に“おじいちゃん”と間違えられるなんて嘘のような出来事を、長女が「パパ、おじいちゃんって2回も言われたんだよ~」と笑いながら証言し、更に皆で大爆笑。

 

 散々笑われた後に、妻が一言…

 

 「姿勢が悪いから、おじいちゃんに間違えられるんだよ! お・じ・い・ち・ゃ・ん!」

 

 確かに年齢に関係なく、姿勢が綺麗な人は、幾つになっても若く見える!

 

 私は直ぐに書店に向かい、「ねこ背がスッキリ直る本」という書籍を購入してきた…

「転校したい!」 宿題のない学校へ…

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 息子が小学生だった夏休みのある日、急に「転校したい」と言うようになった…

 

 親としては、学校で何かあったのか、大変不安になったのだが、その理由を聞いて笑ってしまった。

 

 それは“宿題が多い”から…

 

 そして、息子の希望する転校先は“宿題のない学校”…

 

 そんな学校は無いのだと諭しても中々納得してくれない。

 

 仕方が無いため、恥ずかしながらも友人達に頼んで、他校の宿題の様子を聞いてみた。

 

 結果は…

 

 計ド、漢ド、日記、自由研究等々、息子の学校と似た様な量と内容であった。

 

 それを聴くと、今度は同じ学校のでも、「他のクラスの宿題の量が少ない」ことを口にし始めた。

 

 他のクラスの友達とも良く遊んでいるため、その状況についてとても詳しい。

 

 そこまで言われてしまうと、返す言葉は見付からない…。

 

 とりあえず、他の学校の状況には納得して貰えて、転校したいとの発言が無くなったため、そこで話を打ち切った…

 

 そして、夏休み最終日…

 

 宿題の一つであった“夏休みの感想文”の原稿用紙を見て、思わず笑ってしまった。

 

 そこにはただ一行…

 

 「今年の夏休みは宿題が多くて最悪だった]と書かれていたのだ…

 

  確かにそれが本心なのかもしれない…

 

 とはいえ、申し訳ないが“大人の事情”で書き直しして貰うことにした…

受験勉強で学んだもの

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 受検勉強で学んだことは、社会に出てどれほど役に立つのだろうかという、疑問を呈する話を聞いたりする。

 

 人それぞれに意見があるとは思うが、私としては、受検勉強を通じて得たことも幾つかあったように思われる。

 

 それは時間を掛けて覚えた、英単語や数式、元素記号や歴史の年号などではない。

 

 「学習方法の確立」や「目的を達する為の計画立案力」などである。

 

 これらは、社会人になった今、とても役に立っていると思う。

 

 例えば、仕事をする上で必要となる試験や資格を取得する為には、受検勉強の暗記のように“覚えること”を必要とする場合もあれば、入試にあった小論文のように“文章を書く力”が求められるものもある。

 

 これは、受験の時の学習方法がそのまま役に立つ。

 

 更に、必要となってくるのは、「段取り」「計画性」といったスケジュール感だ。

 

 仕事には「期日」というものあり、それは受験勉強での「試験日」と同じだ。

 

 その期日までに仕事を完了させるためには、先ず必要な作業や手続きを列挙し、その工程を順序立てる作業から始まる。

 

 志望校へ合格するために必要な勉強、スケジュールを立てることと同じだ。

 

 また、限りある時間の中、全ての工程を丁寧に行うことは難しく、最も効果があることを取捨選択して行く必要もある。これもまた受験勉強と似ている。

 

 そりゃ、何事も丁寧にやるにこしたことはない。

 

 しかしながら、丁寧とは時間を要することであり、それは社会において費用を掛けると同意義であるため、常に費用対効果も考えて行わなければならないのだ

 

 受験勉強が直接、今の仕事や生活に寄与しているわけではないが、それを通じて学んだことは確実に“今”に活かされていると思う。

 

 受験勉強とは、実は社会人として大成するための、一つのステップなのではないのだろうか…

 

 

今では懐かしい… 電話ボックスでの長電話

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 スマホ、携帯電話の普及とともに、電話ボックスを見掛けることが殆んど無くなって来た。

 

 私にとっては、大学生になって一人暮らしを始めるまでの間、それはとても大切な場所であった。

 

 当時私は祖父母を始め7人の家族と住んでおり、一人が電話を長時間使用することなど出来なかった

 

 たまに長電話をしている時に限って、他から電話が架かって来る…

 

 それがまた、父の仕事の関係であったり、町内の関係であったり、学校の連絡網であったり… 大切な電話が多かったりするのだ…(今では、仕事の電話が家電なんて、めったにありませんが…)

 

 長電話を何度も叱られて、それでも改善されない状況を見かねて、ついに“キャッチホン”が導入された。

 

 ただキャッチホンは、他から電話が架かって来たことを視覚的に知らせるのではなく、“プツ、プツ、プツ”といった、受話器越しに“音”で知らせるため、会話の邪魔になるだけではなく、通話中の相手方にも気を遣わせてしまうため、とにかく一度電話を切りかえるしかない。

 

 そして、電話を掛けて来た人の要求する家族に替わるしかないのだ。

 

 これでは、他の電話を“キャッチ”するというよりも、楽しい会話に“割り込む”サービスと言った方が適当かもしれない。

 

 そして電話を渡した家族には決まって「また、長電話して」と小言を言われる…

 

 また、会話の内容によっては、電話している私の近くを他の家族が通る度に声を潜める必要があり、常にビクビクしながらの通話となる。

 

 そのような不便さを全て解決してくれるもの…

 

 それが電話ボックスだったのだ。

 

 電話ボックスからならば、先方の電話にキャッチホンが入らなければ良いので、割り込まれる確率は自宅と比べて二分の一となる。

 

 また、電話ボックスという外と遮断された空間のお蔭で、自宅にいるよりも大きな声で、周りに気兼ねなく話すことが出来る。

 

 よって、自宅近くの電話ボックスを幾つ知っているかが重要であった。

 

 近くの公園などには大抵電話ボックスはあったのだが、私と同じように外での長電話を楽しみたい人達も多く、使われている場合も多い。

 

 私はその人の気持ちも良く分かるため、近づいて早く終わるのを急かしたりはせず、他の電話ボックスを探すようにしていた。

 

 複数把握していた近所の電話ボックスを、一通り周ればどれかは空いている。

 

 それでも見つからない場合には、少し遠くはなるが必ず空いている、小さな公民館前の“最後の砦”にまで行ったものだ。

 

 移動手段は自転車しかないため、寒い日もあれば暑い日もあり、雨が降っている日もあったのだが、それを全く苦労と感じていなかったのが今では不思議である。

 

 その頃私が利用していた電話ボックスも、今では2か所だけとなってしまった…

 

 そこを通るたびに、あの頃のことを思い出す…

 

 今の携帯電話ではありえない“不便さ”があったからこその、懐かしい思い出だ…

「長男だから」の考えではなくての「親への恩返し」

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 私には、4つ年下の弟と9つ年下の妹がいる。

 

 一方で、私は2児の父親である。

 

 長男と長女では歳の差は6つ離れている。

 

 それなので、長女が産まれる迄の期間、私達は3人の家族として生活し、長男は“一人っ子”の感覚で成長して来た。

 

 長男が兄妹を意識したのは、多分妻のお腹が大きくなり始めてからではなかろうか…

 

 そして長女は無事に誕生し、長男は“一人っ子”ではなく兄になったのだが、どうしても埋められないものがある…

 

 それは、私たち夫婦と過ごした時間だ

 

 当り前のことであるが、その時間は長男の方が6年間長い…

 

 それに改めて気付いたのは、家族で昔のビデオを観ている時であった。

 

 長女が知らない、長男と私たち夫婦の時間がそこには存在していた…

 

 それを自分自身に置き換えることで、私はあることに気付いた…

 

 私は長男であるが故に、自分の親と過ごした時間は、弟や妹とは異なっている…

 

 妹とは9年も違うのだ…

 

 弟や妹よりも何年も多く、両親に迷惑や心配、負担を掛けて来たのだろう…

 

 あまりにも当たり前のことすぎて、今まで認識が欠けていた…

 

 父は早くに他界し、母も70歳を過ぎ、パーキンソン病を患っており、様々な不安を抱えているのだが、何かの時には“長男だから”というよりは、弟や妹よりも世話になったという恩返しの気持ちから、誰よりも真っ先に駆けつけて、出来る限りの時間を割いて親の力になりたいと今思う…

 

 また、いつの日か私の長男坊も、妹より長い私達との6年の日々に、感謝して欲しいとは言わないが、何か感じてくれたならと思うこの頃である… 無理かな(^_^)