春雨☆サラダ

50歳 2児の父‼️ 好きなものはハードロック、JAZZ、ゴルフ、カメラ、ラグビー、バーボン、芋焼酎、中村あゆみ、高崎晃、ランディローズ、前田日明、田村潔司… 愛読書は北方謙三… 一番大切なものは、晩酌と子供たちとの時間!

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私が思う、頭の良い人とは!

 

 

 一般的に“頭の良い人”とはどんな人物をイメージするのであろうか?

 

 やはり、有名大学の出身であったり、難しい資格を沢山持っている人を思い浮かべてしまうのだろうか…

 

 私の思う“頭の良い人”を一言で表すならば、“バランス感覚に優れた人”である。

 

 自分が従事する仕事の知識や技術を有していることは、そこから得る報酬で生計を立てている限り当然のことである。

 

 ただ、それと同じ位、いや、それ以上に常識力やコミュニケーション力、折衝能力などが必要だと、私は考える。

 

 新型コロナの影響で、就職活動が大変だと聞く…

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 その様な中「資格さえ持っていれば…」と思いがちであり、そのような広告も多く見られる。

 

 週刊誌では、有名企業への就職率の高い大学のランキングを、毎年特集している。

 

 しかしながら、そのように資格を沢山持っていること有名な学校を出ているだけでは、私には“試験が得意な人”としか映らない。

 

 私には、「カラオケが上手い」「サッカーが上手い」「ギターが弾ける」といった、特技の一つと思ってしまう。

 

 個々の能力や特技に違いはあるが、最も大切なのは、いかに周りの人達と上手くやっていけるか、それを自分の人生や仕事に活かしていけるかだと考える。

 

 周りの人達と常識を持って接し、コミュニケーション力と折衝力を発揮して、自分の得意なものを他者に提供する。

 

 代わりに、自分に不足するもの、自分が不得手とするものを周りの人達に補完してもらい、結果として人生や仕事を上手にやっていける人物が“頭が良い人”の様に思う。

 

 いくら難しい資格や専門知識を持っていても、常識が無く、コミュニケーション力や折衝力が欠けていては、それはいつまでも表に出ることのない潜在能力でしかない。

 

 挨拶出来ない人、お礼が言えない人、敬語が使えない人、目を合わせて会話が出来ない人、電話が鳴っても中々出ない人…

 

 いつも溜息ばかりついている人、愚痴や文句ばかり言っている人、会話に全くユーモアがない人…

 

 周りの雰囲気を読めずに自分の意見だけを主張する人、相手の話を聴けない人、上から目線で話をする人、人を学歴で判断する人…

 

 昼休みは一人で過ごし、仕事が終われば早々に帰宅する人、誘っても職場の仲間と食事や飲みに行くこともなく、仕事以外の会話が無い人…

 

 常日頃その様な態度でいる人は、いくら難しい資格を沢山持っていようとも、いくら高学歴であったとしても、それ以前にその者自身が周りに受け入れられることはないだろう。

 

 一方で、「コミュニケーション力」「折衝力」ばかりが目立ち、誰とでも上手く接することが出来る人物はどうであろうか…

 

 それに加えて、自分の得意分野を持ち、従事する仕事の知識や技術は長けていなくては、単なる“お調子者”である。

 

 要するに、その辺りのバランスが良い人を、私は“頭の良い人”だと思う。

 

 またそれは、“世渡り上手”な人物指しているのではない。

 

 そもそも、周りに“世渡り上手”と映ってしまうような振る舞いをすること自体が“頭が良い”とは言えないと思う。

ねこ背との決別!

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 私が40歳になった頃の話です…(10年くらい前)

 

 私は中学生の頃から“ねこ背”であった。

 

 親からも度々注意され、それでも直さないため、ねこ背を矯正するサポーターなるものを付けさせられた時もあった。

 

 そこまでされたのに、私自身に直そうという意欲が全く無かったため、40歳になってもねこ背で姿勢が悪い。

 

 ねこ背が健康にも悪いことも、散々知ってはいたのだが…

 

 そんな私を一大奮起させる出来事が起きた。

 

 それは、長女の幼稚園で行われる父親参観会に向かう時のことだった。

 

 私は長女をママチャリの後ろに乗せて、のんびりと自転車をこいでいた。

 

 私と一緒に自転車に乗ることが珍しいのか、後ろの席では長女がはしゃいで、右へ左へと体を揺らしている。

 

 私は、バランスを取るために、ゆっくりゆっくり慎重に自転車を進めていた。

 

 すると後方より「あらぁ、おじいちゃんと一緒で楽しいわねぇ」との声が聞こえ、女性が自転車で近づいて来た。

 

 そして私達の自転車を追い越しながら、後ろの席の長女に笑いかけると、直ぐにその前にいる私を見て驚き、「あら…失礼…」と、スピードを上げて去っていった

 

 人生で初めて“おじいちゃん”に間違えられた私は、相当のショックを受けた…

 

 しかしながら、その数分後、またまた後方より「おじいちゃんと一緒で楽しいわねぇ」と声を掛けられた

 

 今度は私の方から振り向き、声の主を確認すると、私と目が合ったその方は、「すみません…」との言葉を残して、あっと言う間に私達親子の自転車を追い越して行った。

 

 私は薄毛であり、自転車ものんびりと漕いでいた。

 

 しかしながら、同世代でも同じように薄毛や頭が真っ白な友人も多くいる。

 

 その日に着ていた服装だって、どちらかというと若者が着るような派手ものである。

 

 それなのに1日で2度も“おじいちゃん”と間違われた…

 

 これは偶然ではなく後姿が完全に“おじいちゃん”なのだろう…

 

 自宅に帰ってその一件話すと、妻と長男は腹を抱えて大笑い。

 

 二人に“おじいちゃん”と間違えられるなんて嘘のような出来事を、長女が「パパ、おじいちゃんって2回も言われたんだよ~」と笑いながら証言し、更に皆で大爆笑。

 

 散々笑われた後に、妻が一言…

 

 「姿勢が悪いから、おじいちゃんに間違えられるんだよ! お・じ・い・ち・ゃ・ん!」

 

 確かに年齢に関係なく、姿勢が綺麗な人は、幾つになっても若く見える!

 

 私は直ぐに書店に向かい、「ねこ背がスッキリ直る本」という書籍を購入してきた…

「転校したい!」 宿題のない学校へ…

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 息子が小学生だった夏休みのある日、急に「転校したい」と言うようになった…

 

 親としては、学校で何かあったのか、大変不安になったのだが、その理由を聞いて笑ってしまった。

 

 それは“宿題が多い”から…

 

 そして、息子の希望する転校先は“宿題のない学校”…

 

 そんな学校は無いのだと諭しても中々納得してくれない。

 

 仕方が無いため、恥ずかしながらも友人達に頼んで、他校の宿題の様子を聞いてみた。

 

 結果は…

 

 計ド、漢ド、日記、自由研究等々、息子の学校と似た様な量と内容であった。

 

 それを聴くと、今度は同じ学校のでも、「他のクラスの宿題の量が少ない」ことを口にし始めた。

 

 他のクラスの友達とも良く遊んでいるため、その状況についてとても詳しい。

 

 そこまで言われてしまうと、返す言葉は見付からない…。

 

 とりあえず、他の学校の状況には納得して貰えて、転校したいとの発言が無くなったため、そこで話を打ち切った…

 

 そして、夏休み最終日…

 

 宿題の一つであった“夏休みの感想文”の原稿用紙を見て、思わず笑ってしまった。

 

 そこにはただ一行…

 

 「今年の夏休みは宿題が多くて最悪だった]と書かれていたのだ…

 

  確かにそれが本心なのかもしれない…

 

 とはいえ、申し訳ないが“大人の事情”で書き直しして貰うことにした…

受験勉強で学んだもの

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 受検勉強で学んだことは、社会に出てどれほど役に立つのだろうかという、疑問を呈する話を聞いたりする。

 

 人それぞれに意見があるとは思うが、私としては、受検勉強を通じて得たことも幾つかあったように思われる。

 

 それは時間を掛けて覚えた、英単語や数式、元素記号や歴史の年号などではない。

 

 「学習方法の確立」や「目的を達する為の計画立案力」などである。

 

 これらは、社会人になった今、とても役に立っていると思う。

 

 例えば、仕事をする上で必要となる試験や資格を取得する為には、受検勉強の暗記のように“覚えること”を必要とする場合もあれば、入試にあった小論文のように“文章を書く力”が求められるものもある。

 

 これは、受験の時の学習方法がそのまま役に立つ。

 

 更に、必要となってくるのは、「段取り」「計画性」といったスケジュール感だ。

 

 仕事には「期日」というものあり、それは受験勉強での「試験日」と同じだ。

 

 その期日までに仕事を完了させるためには、先ず必要な作業や手続きを列挙し、その工程を順序立てる作業から始まる。

 

 志望校へ合格するために必要な勉強、スケジュールを立てることと同じだ。

 

 また、限りある時間の中、全ての工程を丁寧に行うことは難しく、最も効果があることを取捨選択して行く必要もある。これもまた受験勉強と似ている。

 

 そりゃ、何事も丁寧にやるにこしたことはない。

 

 しかしながら、丁寧とは時間を要することであり、それは社会において費用を掛けると同意義であるため、常に費用対効果も考えて行わなければならないのだ

 

 受験勉強が直接、今の仕事や生活に寄与しているわけではないが、それを通じて学んだことは確実に“今”に活かされていると思う。

 

 受験勉強とは、実は社会人として大成するための、一つのステップなのではないのだろうか…

 

 

今では懐かしい… 電話ボックスでの長電話

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 スマホ、携帯電話の普及とともに、電話ボックスを見掛けることが殆んど無くなって来た。

 

 私にとっては、大学生になって一人暮らしを始めるまでの間、それはとても大切な場所であった。

 

 当時私は祖父母を始め7人の家族と住んでおり、一人が電話を長時間使用することなど出来なかった

 

 たまに長電話をしている時に限って、他から電話が架かって来る…

 

 それがまた、父の仕事の関係であったり、町内の関係であったり、学校の連絡網であったり… 大切な電話が多かったりするのだ…(今では、仕事の電話が家電なんて、めったにありませんが…)

 

 長電話を何度も叱られて、それでも改善されない状況を見かねて、ついに“キャッチホン”が導入された。

 

 ただキャッチホンは、他から電話が架かって来たことを視覚的に知らせるのではなく、“プツ、プツ、プツ”といった、受話器越しに“音”で知らせるため、会話の邪魔になるだけではなく、通話中の相手方にも気を遣わせてしまうため、とにかく一度電話を切りかえるしかない。

 

 そして、電話を掛けて来た人の要求する家族に替わるしかないのだ。

 

 これでは、他の電話を“キャッチ”するというよりも、楽しい会話に“割り込む”サービスと言った方が適当かもしれない。

 

 そして電話を渡した家族には決まって「また、長電話して」と小言を言われる…

 

 また、会話の内容によっては、電話している私の近くを他の家族が通る度に声を潜める必要があり、常にビクビクしながらの通話となる。

 

 そのような不便さを全て解決してくれるもの…

 

 それが電話ボックスだったのだ。

 

 電話ボックスからならば、先方の電話にキャッチホンが入らなければ良いので、割り込まれる確率は自宅と比べて二分の一となる。

 

 また、電話ボックスという外と遮断された空間のお蔭で、自宅にいるよりも大きな声で、周りに気兼ねなく話すことが出来る。

 

 よって、自宅近くの電話ボックスを幾つ知っているかが重要であった。

 

 近くの公園などには大抵電話ボックスはあったのだが、私と同じように外での長電話を楽しみたい人達も多く、使われている場合も多い。

 

 私はその人の気持ちも良く分かるため、近づいて早く終わるのを急かしたりはせず、他の電話ボックスを探すようにしていた。

 

 複数把握していた近所の電話ボックスを、一通り周ればどれかは空いている。

 

 それでも見つからない場合には、少し遠くはなるが必ず空いている、小さな公民館前の“最後の砦”にまで行ったものだ。

 

 移動手段は自転車しかないため、寒い日もあれば暑い日もあり、雨が降っている日もあったのだが、それを全く苦労と感じていなかったのが今では不思議である。

 

 その頃私が利用していた電話ボックスも、今では2か所だけとなってしまった…

 

 そこを通るたびに、あの頃のことを思い出す…

 

 今の携帯電話ではありえない“不便さ”があったからこその、懐かしい思い出だ…

「長男だから」の考えではなくての「親への恩返し」

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 私には、4つ年下の弟と9つ年下の妹がいる。

 

 一方で、私は2児の父親である。

 

 長男と長女では歳の差は6つ離れている。

 

 それなので、長女が産まれる迄の期間、私達は3人の家族として生活し、長男は“一人っ子”の感覚で成長して来た。

 

 長男が兄妹を意識したのは、多分妻のお腹が大きくなり始めてからではなかろうか…

 

 そして長女は無事に誕生し、長男は“一人っ子”ではなく兄になったのだが、どうしても埋められないものがある…

 

 それは、私たち夫婦と過ごした時間だ

 

 当り前のことであるが、その時間は長男の方が6年間長い…

 

 それに改めて気付いたのは、家族で昔のビデオを観ている時であった。

 

 長女が知らない、長男と私たち夫婦の時間がそこには存在していた…

 

 それを自分自身に置き換えることで、私はあることに気付いた…

 

 私は長男であるが故に、自分の親と過ごした時間は、弟や妹とは異なっている…

 

 妹とは9年も違うのだ…

 

 弟や妹よりも何年も多く、両親に迷惑や心配、負担を掛けて来たのだろう…

 

 あまりにも当たり前のことすぎて、今まで認識が欠けていた…

 

 父は早くに他界し、母も70歳を過ぎ、パーキンソン病を患っており、様々な不安を抱えているのだが、何かの時には“長男だから”というよりは、弟や妹よりも世話になったという恩返しの気持ちから、誰よりも真っ先に駆けつけて、出来る限りの時間を割いて親の力になりたいと今思う…

 

 また、いつの日か私の長男坊も、妹より長い私達との6年の日々に、感謝して欲しいとは言わないが、何か感じてくれたならと思うこの頃である… 無理かな(^_^)

祖母は真に受けてしまう… マスコミの影響力!

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 私の祖母は、昔から何かに付けて「テレビで○○○が体に良いってやっていたから…」とか、「ラジオで×××と言っていたから…」と、マスコミが報じることは、全て正しいことだと信じ、私に色々なモノを勧めて来た。

 

 しかしながら「眼が悪くならない」と言われパセリを一生懸命食べていたものの、パソコンという現代社会における必要不可欠な道具の存在により視力は低下

 

 「髪が抜けない」と言われてヒジキやワカメなどの海藻類を食べ続けたところで、私の髪は「遺伝」という宿命には勝てずに減退の一途を辿り、父や祖父と同じ容姿となってしまった…

 

 祖母にとって、マスコミが言うこととは、科学的・医学的根拠に基づいている“真実”であり、だからこそ各局が堂々と報道しているものと思っている…

 

 私がテレビを観ていても、最初に「業界関係者によると…」とか、「一つの話ではありますが…」などの断りを一応はしているものの、その後に述べる司会者の力のこもった口上を聴いていると、あたかもそれが“主流”な考えではないかと感じてしまうこともある。

 

 更にそれらに同意や感嘆を示す出演者のコメントや、画面の右上などに常に表示されている「新発見」「これで○○が治る」などといったテロップを見ていれば、祖母にとって、それが本当のことであると考えてしまうのも無理はない…

 

 現在、様々な広告物等については消費者庁の定める景品表示法にてルール化され、広告主は自身のサービス、商品の広告宣伝の表現について細心の注意を払っている。

 

 一方で、情報発信の一番の担い手であり、消費者に与える影響も大きいマスコミの各種表現について、景品表示法の存在を認識しているのかどうか、首を傾げたくなるような番組が多い。

 

 新聞にあるテレビ番組の放送予定を見ても、「一番○○」「必ず△△!」「ついに発見!」など、通常ならば客観的な証明が無ければ使用出来ない文句や、実際には誇張である表現がそこかしこにある…

 

 普通の企業がそのような表現を用いるには、「当社比で○○」「△△%の可能性で」「一部例外がありますが…」などと、その表現を裏付けする客観的事実も同時に示すか、重要な注意事項も全て列挙して伝える必要がある。

 

 表現の自由があるとは言え、現代社会における情報発信者として、世間への影響力が非常に大きいマスメディアにおいて、そのような表現が規制されていない事に疑問を感じる。

 

 今日もまた、祖母が新たな情報を仕入れ、親切心で私に勧めて来た…

 

 効果があるかは不明であり、あくまでも「テレビで○○さんが言っていた」というシロモノである…

 

 時間的にも金銭的にも負担は増えるが、「テレビの○○さん」を信じるのではなく、祖母を悲しませないために、これからも実行して行くことになりそうだ…

これは、私の加齢臭ではありません!ってね…

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 私も加齢臭が似合う“お年頃”になって来た(^_^)

 

 そんな私でも他人の臭い…特に“残り香”が妙に気になることがある。

 

 エレベーターの扉が開いた時などがそうだ。

 

 誰もいないのに、つい先程まで乗っていたと思われる人の“残り香”が強烈に漂っていることがある。

 

 それは、加齢臭という言葉が世に広まる以前からあった、典型的な“オジサン臭”である。

 

 私自身も加齢臭を漂わせているのに、そんなにも感じてしまうのは、相当の臭いを発しているからだろう。

 

 まあ、私も年齢を重ねるにつれ、その様な臭いを纏って行くため、その人を悪く言うつもりはない…

 

 年相応の自然現象なのだ!

 

 ただ嫌なのは、まだその域まで達していない私が、その臭いを発していると他の人に誤解されることだ。

 

 例えば私が“残り香”のあるエレベーターに乗っていて、途中の階で他の人が乗り込んで来たとする。

 

 その人は、漂う臭いの主が私であると思うに違いない。

 

 自分が逆の立場ならば、そう思うからだ。

 

 やっかいなことに、私の加齢臭がそれとは異なることを証言出来るのは、普段から私の臭いを知る妻と子供ぐらいしかいない…

 

 自分から「この臭いは私のモノではありません」などと言える訳がないのだ。

 

 トイレや個室など、閉鎖された空間がある限り私の苦悩は続く…

 

 

 

私の悩み… 雨の日の車の乗り降り

 

 クルマの機能は日進月歩し、私が子供の頃とは比べ物にならないほど快適なものとなっている。

 

 私が大学の時でさえ、カセットテープのデッキが付いて標準、CDプレーヤーが付いているようなら高級な手合いの車であった。

 

 それが今ではカーナビゲーションが標準で搭載され、渋滞情報などの最新の道路状況が自動的に表示される。

 

 CDなど当たり前で、DVDやワンセグ放送の視聴まで出来てしまう。

 

 そして極め付けは、電気自動車やハイブリッドカーなど低燃費車の登場だ。

 

 小学校の時に授業で、私達が30歳になる頃には、世界中の石油が枯渇してしまうと先生が話していたのを覚えている。

 

 それが未だに石油は無くならず、逆に1リッター30キロを超えて走る車や、ガソリンさえも不要とするクルマが登場して来たのだ。

 さらには自動運転!

 

 ところが、これだけクルマの機能が進歩して来たのに、私にとって昔から変わらない一番の憂鬱が解消されていない…

 

 それは、雨の日の車の乗り降りだ…

 

 更に風が強い日などは不快の極みである。

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 とにかく、どんなに工夫しても、クルマへの乗り降りの際に衣服が濡れてしまうのである。

 

 傘をさした状態でクルマのドアを開け、先に体を滑り込ませてから傘を綴じるのが一番衣服を濡らすことが少ないと思われる。

 

 しかしながら、傘を綴じることは身体の一部をクルマの外に出して行わなければならないため、どうしても濡れてしまう。

 

 また、綴じた傘を車内へ入れる時にも、急ぐあまり、自分の身体や車内の何処かに水滴が掛かってしまう。

 

 隣に停めてあるクルマとの距離が近く、ドアを十分に開閉することが出来ない場合は更に苦難を極める。

 

 そのような場面に遭遇する度に、クルマのドアを開けると、車体との間にテントのターフの様なものが出て来て、少しでも雨風を凌いでくれればと、叶わぬことを想像してみたりする。

 

 クルマの製造に携わる方々には、何とかその辺の私の悩みを解消して頂ければと切に思う。

10代の頃観た映画、未だに観てます!

今週のお題「最近見た映画」

 

 食卓でお酒を飲んでいると、そのうち、長男が自室に帰り、長女も自室に帰り、一緒に飲んでいた妻も、お風呂に入り着替えて就寝…

 

 リビングに一人残された私は…

 

 LINEやったり、YouTube観たり…

 

 でも、一番好きなのは、バーボンソーダ片手に、10代の頃観た映画を、部屋を暗くしてヘッドホンでじっくり見ることかな…

 

 ※最近はバーボンソーダではなく、ハイボール… ボクが20代のころは、ハイボー

  ルって言うと、おっさんの呼び方で、若者は同じものだけど、バーボンソーダって

  言っていたんだけどな~

 

 もう、何度も何度も観ているのに、ラストシーンで絶対気持ち良くなれるから、酔いに任せてそのまま布団にダイビング!

 良い夢観られます!

 

 だから、あんまり重たい内容の映画は嫌いですね~

 

 ベタですけど、今の若い方たちにも観てもらいたい映画を3つほど紹介!

 

 まずは、ジャッキー・チェンスパルタンX

 

 「プロジェクトA」「五福星」「ポリス・ストーリー」など、ジャッキーが「○○拳」シリーズから、サモハンキンポー、ユンピョウとともに新たな感じで、それこそ当時の誰しもが熱狂しましたね~

 その中でも、あえて分かりやすく、ユーモアもたっぷり、格闘の要素もいっぱい詰まった「スパルタンX」が良いです!

 

 三沢光晴選手が、二代目タイガーマスクを脱いだあと、入場テーマ曲として使っていたことが更に素敵な思い出としてよみがえります!

 

 

 次は「フットルース!」 もう、映画だけではなく、全曲シングルカットじゃんってくらい、オリジナルサウンドトラックが流行りました!

 

 観るだけではなく、未だに朝は「I’m Free」「Hero」「Foot Lose」の順で聴いてから、気持ちを高めて会社へ出社!

 

 

  で、最後は「トップガン!」

  もう言うことないですね~ 

  最後はスッキリ、オリジナルサウンドトラックもサイコー、ロマンチックなシーン

 で、こんな人生や生活に憧れましたね~ もう言うことないでしょ!

 

 とまあ、今日はベタなものばかりとなってしまいましたが、年齢を重ねたせいでしょうか…臆病になってしまい…

 もう、心に重たく残るような映画が観れなくて…

 スッキリ、スカッと!

  平和と無難をこよなく愛する今日この頃です(^_^)

 

早朝&夜遅くの運動…

 

 

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 スポ魂マンガや、スポーツ選手のインタビュー・自叙伝などで、朝もまだ陽が昇らぬうちから練習を行い、自宅に帰っても夜遅くまで練習していたことが、とても素晴らしいことであるかのように描かれている。

 

 しかしながら、私は以前住んでいたアパートで、その熱心な“練習”に悩まされたことがあった…

 

 それは練習時に発せられる“音”である。

 

 マンションの近くにはスポーツ少年達が多く住んで居たのだろう…

 

 また、目の前の歩道は格好のランニングコースとなっていた…

 

 それゆえに、夜9時を過ぎて寝床に入ると、色々な音が聞こえてくる…

 

 バスケットボールのドリブル音や、サッカーボールを蹴る音…

 

 野球のバットの素振りであっても、それが空を切る音は静かな夜には大きく聴こえ、気になって眠りに付けない。

 

 同じようなことは、夜だけではなく、早朝練習をしている人たちにも言える…

 

 睡眠が沢山必要な、小さな子供達が住む住宅街では大変迷惑な“騒音”である。

 

 最近では健康維持の為、ウォーキングやランニングがブームである。

 

 大半の人は、音楽を聴いたりして一人黙々と歩いるのだが、中には2~3人でペチャクチャ話をしながら行う人達がいる。(多分、友人や近所の人達で、途中で挫折しないように誘い合っているのだろうが…)

 

 沢山歩きつつも、たくさん口を動かしており、時には高笑いすら聞こえて来る…

 

 自身の健康維持や運動能力を高めることに努めることは良いことだが、それを行う場所や時間によっては、誰かの「睡眠」を妨害していることも考えて欲しい…

 

「睡眠」とは言わずと知れた万人の“健康の源”と私は思う…

学校の制服やカバン等を統一する必要はあるのだろうか?

 

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 この春、娘が中学へ入学。

 

 私の住む街は地方なので、中学に入学すると「着衣の乱れは心の乱れ」との標語の下、学校ごとに統一された制服はもちろんであるが、体操着、ジャージ、運動靴、通学靴、カッパにヘルメット、靴下、カバン等々細かく指定されることになる。

 

 ついこの間まで通っていた小学校では、何もかも自由であったのに、急に軍隊のような窮屈な生活へと変わる。(別に普通の公立中学です)

 

 しかも、それらは通常のモノと比べて往々にして値段が高い❕

 

 それでも学校指定のものが、誰もが身に着けたくなるデザインであれば、不満も何も無いのだろう…

 

 ただそれらは、見直しなどされておらず、時代にそぐわないものが多い。

 

 今でこそノータックで細身のパンツは定番であるが、私の中学時代、街行く人達は皆、ワンタックかツータックで腿の所が太目のパンツであった。

 

 ファッションの流行は巡り巡っているのに、校則だけは変わらない。

 

 上手く流行とマッチすれば良いが、そうでないと身に着けるのがとても恥ずかしい。

 

 何と言っても思春期真っ只中の“お年頃”なのだ。

 

 もしも、お気に入りの服を着て通学出来れば、学校生活でのモチベーションだって上がるだろう。

 

 私は衣服を買う時、それが如何に自分を高揚させてくれるモノかを重視している。

 

 自分自身を向上させるには、その内面を鍛えなければならないと思う。

 

 しかしながら、そこに至るには時間もかかるし、継続して努力する強い意志も必要とされる。

 

 その為、まずは身に着けるものをキチンとし、自分の気持ちを高揚させることで、内面を磨く強い意志を養うのだ。

 

 時には身の丈以上の格好をすることで、それに見合った態度や立ち振る舞い、言動を心掛けなければならず、それが否応にも自分が成長するための努力を行うモチベーションとなるのだ。

 

 制服だってほとんどの者は、校則などお構いなしに、自分流にアレンジするようになる。

 それを私は安易に否定はしたくなく、各々が学校へ通う気持ちを高揚させる為に、必要な行為であると考える。

 

 社会人で管理職ともなると、人を動かす能力が求められる。

 

 それには、部下のモチベーションを如何に高め、自発的な行動を促せるかが、重要な事項の一つとして挙げられている。

 よって学校も、学生達に対してモチベーションを高め、成長する努力を自発的に促す為の仕掛けが必要だと思う。

 

 そう考えると、制服や靴やカバン等を統一する必要はあるのだろうか? と考えてしまう…  「誰かが儲けるため」って疑ってしまう…

昔は良くあった、テレビ放送のつなぎ目?

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 ボクが子供のころは、テレビを見ていると、番組が切り替わる瞬間やCMが切り替わる瞬間に、ほんのコンマ何秒かではあるが、他のCMが一瞬映ることが良くあった(笑)

 

 昔から気になっていたが、地方に住んでいるため東京のキー局とは放送番組やスポンサーが異なっていて、このような現象が起きるのだろうと思っていた。

 

 一方で家電製品の進化は速く、ビデオデッキはハードディスクやブルーレイに替わり、テレビ放送自体もデジタル放送になった。

 

 お蔭で映像は鮮やかになるし、番組の録画なども非常にラクになった。ビデオの予約録画で一世を風靡した“Gコード”も、いつの間にか新聞紙面上から消えている。

 

 また、録画した番組を視聴するにしても、1本のビデオテープに複数の番組を録画してあるため、見たい番組を探し当てるのに、タイムカウンターを見ながら早送りしたり、巻き戻したりして探り当てていた。

 

 今思うと何ともアナログチックな作業を良くもしていたものだ…

 

 しかしこれだけ技術が進歩しても、あの一瞬映る“他の映像”は、時~々見かける。

 

 放送業界や機器についてはてんで素人であり全く分からないが、現代の技術を以ってしても解決出来ないほどの難しいことなのであろう…

 

 デジタル化が進む中、昔と変わらぬアナログチックな現象が残っていることが、なんとも微笑ましい!

 

 子供達がテレビを観ていて「今、○○が見えた!」と興奮して騒ぐたびに、自分の子供の頃を思い出すようで心が温まるから…

されど年賀状が好き!!

 

 

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 異常気象のせいだろうか…

 

 移ろいゆく季節を、暦に定められた行事通りに変わりゆく街の風景にて感じてしまう事に近頃寂しさを覚える。

 

 明日から11月だというのに暖かいため、秋の装いで街を歩いていると、年賀状プリントのパンフレットが、カメラ屋やスーパーの店頭に設置されているのを目にして、年末の近いことを知らされた。

 

 これは地球温暖化の影響だけではないのだと思う。

 

 私が幼少の頃は、電源を入れれば直ぐに暖かくなる今の様な暖房器具は無く、湿気の多い季節でも快適に過ごせるエアコンも普及しておらず、それらの“不便さ”が“季節”を教えてくれていたように思われる。

 

 そういえば、年賀状を作るにしても、昔は色々と“不便さ”があった。

 

 小学生の頃は、まずデザインについて散々悩んだ末に、彫刻刀片手にゴム判や板判と数日かけて格闘して作成していた。

 

 その後“プリントゴッコ”なる画期的な商品が発売され、年賀状印刷に費やす時間は大きく短縮された。また、デザインを考えるでも多くの可能性をもたらした。

 

 思春期真っ只中の私は、当時の用語で“ダサい”ものを送りたくなく、構想で悩む時間は増えてしまった。

 

 そして、いざ“印刷”という段階になって、プリントゴッコのインクの残量が少ないことに気付き探し回るも、その頃になると文房具店やホームセンターの店頭はどこもインクが品薄となっており、その入手に一苦労したこともある。(特に黒色…)

 

 そうこうしている内に、年賀状が元日に配達される投函期限まで僅かとなり、久方ぶりの友人にさえ「今年もよろしく」「また一緒に遊ぼう」といったレベルのコメントを書くのが精一杯で、自身の近況を伝える余裕など無くなってしまう。

 

 それでも、私はこの「年賀状」という習慣をとても大切にしている。

 

 最近ではメール、ライン等により、年賀状の量が大きく減少していると聞く。

 

 また、住所録管理から宛名書き印刷までしてくれる便利なパソコンソフトの普及により、年に一度、恩師・親族・友人・知人の名前を、自身の手で書く行為ですら略せるものとなってしまった。要するに、「自署」「自作(手作り)」なる部分がどんどん減少してしまっているのだ。

 

 それもあり、私は小さなこだわりとして、年賀状には必ず、自身の字で一言添えることにしている。

 

 元々、字は上手くない上に、年末でバタバタしている中、必ずしも“丁寧”に書けるものではない。

 

 しかしながら、正月を迎え晴れやかな気持ちで、ほろ酔いかげんでいる友人達を想いつつ、年に一度でも“私の事”を思い出して頂きたいとの思いを込めて、近況を少しでも書くようにしている。

 

 年に一度、そのような想いで年賀状を書く事でその人に思いを馳せ、最近疎遠になってしまった人とは、近く逢いたいと思い立つこともあるのだ。

 

 逆に、一言でも手書きのコメントが添えられている年賀状を受け取ると、そこから様々な想いを巡らせることになる。

 

 小学校からの旧友などは、書かれている内容だけでなく、昔から変わらぬその文字に懐かしさを覚える。

 

 また、普段はメールのやり取りで“直筆”を見る機会の無い人など、書かれている文字を見て、イメージと一致していることに妙に納得してみたり、逆に意外なほど綺麗な文字を書く人だと知り、その人を見る目が変わったり…

 

 パソコンやスマホの普及で、お互いの“直筆”を取り交わすことが減ってしまった現在、「字は体を表す」という言葉を私は年賀状を通して体感することが多い。

 

 ライン、メールでの遣り取りが多くなった時代だからこそ、年に一度は互いの“直筆”を遣り取りしたいものである。

 

 きっと“絵文字”“顔文字”“スタンプ”に勝るとも劣らぬ、“想い”を伝えるツールになることだろう。

交通標識って、分かりづらくありませんか?(たまには真剣な提言!)

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 男女や年齢にて差別してはいけないのは承知しているが、車の運転をしていて、年配の女性の自転車や、子供達の自転車にヒヤリとさせられる場面が多々ある。

 

 年配の女性の方で多いのは、後方を確認することなく突然道路を左端から右端に斜め横断したり、曲がり角を一旦停止もせずに突然飛び出してくることである。

 

 余りにもひどい場合、クラクションを鳴らして警告してみると、大抵こちらが睨まれる… そして何故かいつまでも睨んでいる…

 

 自分はちっとも悪いと思っていないからなのだろう…

 

 子供達でいえば、高校生はまず一旦停止することはないし、信号の無い交差点でも、クルマが来ないとの思い込みのもと、全く止まらずに進入して来る。

 

 自ら事故に遭う確率を高めているようで、見ている方が冷や汗を掻いてしまう。

 

 なぜだろう…

 

 自転車は免許証が不要なため、交通標識やルールを十分に勉強せずに乗っているからなのだろうか。

 

 私は運転免許の試験において、ペーパーテストで2回も落ちた。

 

 結局、必至に勉強してやっとの思いで合格出来た。ただ、そこまでして勉強しなければ覚えられない、交通標識やルールとは何なのだろう、と疑問に思ったのも事実である。

 

 例えば一旦停止の標識にしても、先の年配の女性や高校生を始め、自転車で走る人達がどの程度知っているのか常々疑問に思っている。また、目線が低い子供達に、高く掲げられた交通標識が目に入るのだろうか。

 

 そこで交通標識やルールの内、重要なものについては、老若男女を問わず、自動車免許を持っていない人でも、誰もが一目で判るものに出来ないだろうか。

 

 分かりやすいのは道路上に標すことであろう。一旦停止の白線や標識よりも、道路上に大きく「一旦停止」と描かれていた方が分かり易い。

 

 更に言うと、一旦停止という言葉自体が、小さな子供達や自動車運転に縁のない人達には難解な言葉なのかもしれない。

 

 “一度止まれ”などといった、平易な言葉を道路上に標しても良いのではないだろうか。

 

 何となく、交通ルールの主役は自動車のドライバーであり、それを伝える標識も“記号”が主役となっていて、それ以上に通行量の多い歩行者や自転車に対する、視覚的な訴えが少ないように感じる。

 

 いつ、自分自身が交通事故の被害者となり、加害者となるか分からない時代である。

 出来ることならば、もう少し判り易い交通ルールの標記を望む。